どんぐりは森の実でありながら、かつて人の食卓にもあった。
縄文の人々は秋になると山に入り、落ちたどんぐりを拾い集めた。
水にさらして苦味を抜き、石で砕き、粉にして火で焼く。
時間のかかるその作業の先に、ようやく一枚の平たい餅ができあがる。
それは穀物が育たぬ時代に、森が与えた確かな糧だった。
どんぐりには渋みのもととなるタンニンが多く含まれる。
そのままでは食べられない。
けれど、長く水にさらせばやわらかくなり、独特の香ばしさを残す。
どんぐりを食べるという行為には、
森と人との“忍耐の関係”があったのだろう。
時代が進み、米や麦が人の主食になると、
どんぐりは“非常食”へと姿を変えた。
飢饉や戦のとき、人々はまた山へ向かい、
苦い実を拾い、灰汁を抜き、命をつないだ。
森はいつの時代も、人の背後で静かに見守っていた。
やがてどんぐりは、食べ物ではなく“遊び”になっていく。
子どもたちは帽子を並べ、こまを作り、
ころころ転がしては笑い転げた。
公園の片隅でポケットいっぱいに拾い集めたあの日、
私たちは無意識のうちに、
遠い縄文の記憶を追体験していたのかもしれない。
現代のどんぐりは、観察の対象でもあり、学びの入口でもある。
学校の理科室では、
「これはマテバシイ」「これはコナラ」と名札をつけて並べる。
食べられなくても、使われなくても、
どんぐりは今も人の生活の隣にある。
森に足を踏み入れると、
どんぐりの落ちる音が遠くから聞こえてくる。
それは古代からつづく“豊かさの音”なのかもしれない。
森が静かに差し出してくれる小さな恵みを、
人はいつも何かしらの形で受け取ってきた。
拾う手が子どもであれ、大人であれ、
その掌の温かさに変わりはない。
どんぐりは、
人と森を結ぶ、変わらぬ約束のかたちだ。
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