この「コオロギシリーズ」を書き終えて、 私はあらためて“音を聴く”ということの深さを思う。 小さな虫の声を追ううちに、いつの間にか季節を聴き、 そして人の記憶を聴いていた。 コオロギという存在は、単なる生き物ではなく、 人の感性を映す鏡だったのだ。
🕊 風流のはざまで
かつて日本の秋は、音で満たされていた。 虫籠の音、風の通り道、遠くの鐘の余韻。 それらを“風流”と呼び、耳を澄ませることが文化だった。 しかし現代では、便利さと速度がその静けさを覆い隠している。
このシリーズを書きながら感じたのは、 風流とは「古き美」ではなく、「感じ取る力」そのものだということ。 音があってもなくても、 耳を澄ます心があるかどうか――そこにすべてがある。 鳴く虫は、私たちにその“間”を教えてくれる。
🌾 コオロギという鏡
マアジの海を見つめたとき、 その姿に人の生を重ねたように、 コオロギの音にもまた、人の時間が宿っている。 鳴くこと、沈黙すること、命のめぐり。 それは、私たち自身の呼吸そのものだ。
夜、机の上の原稿を閉じるとき、 遠くでひと声だけ「チン…」と鳴く気配がする。 それが本当に聞こえたのか、記憶の中の音なのか―― もう確かめる必要もない。 その曖昧さこそが、風流の正体なのだと思う。
🕯 書くこと、聴くこと
書くという行為は、 もともと“聴くこと”から始まる。 言葉にする前に、心の中で何かを聴く。 風の音、虫の声、あるいは自分の沈黙。 このシリーズで書いた一行一行は、 その聴く瞬間の記録だった。
現代の暮らしの中で、 私たちは多くの音に囲まれていながら、 本当に大切な音を聴けていないのかもしれない。 それでも、耳を澄ませる心はまだ残っている。 自然の声を、言葉の奥で聴くことができる限り、 この文化は息をしている。
💫 未来への一音
コオロギの声が聞こえない夜でも、 世界は確かに鳴いている。 それは風のざわめきであり、 灯りのゆらめきであり、 人の心の奥にある微かな共鳴だ。
いつか誰かがまた、 秋の夜に耳を澄ませ、 「この音を言葉にしたい」と思うなら、 このシリーズはその種になれたのだと思う。 風流とは、受け継がれる感性の火。 小さな音が、次の季節へと灯を渡していく。
🪶 終章の詩
音のなき 秋の帳(とばり)に 声ひとつ 誰も聞かずも 確かに在りて
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