▫️雷とともに降りてくる獣という伝承
昔から日本では、雷が鳴るとともに空を走り、地上へ落ちる“獣”がいると語られてきた。
その名が雷獣(らいじゅう)。
雷の音とともに現れ、稲光とともに山を駆け、激しい雨が収まると痕跡だけを残して姿を消すという。
雷が落ちた田畑や山の斜面に、焼けたような跡や、ひっかいたような筋が残ることがある。
人びとはそれを「雷獣が走った跡」と呼び、雷の力と、山の動物の存在を重ねてきた。
空から落ちたものと、地を走るものがひとつの物語として結びつけられていたのだ。
▫️“雷獣の正体”として語られたテン・ムササビ・イタチ
雷獣の正体については、地域によってさまざまな説が伝わっている。
もっともよく挙げられるのがテン(貂)だ。
テンは山地に棲み、樹上や岩場を素早く移動する肉食獣で、雷雨のあとに濡れた毛が逆立った姿は、黒褐色の“焦げた獣”のようにも見えた。
また、ムササビが雷獣と結びつけられた地域もある。
雷鳴の中、樹から樹へ滑空する影は、稲光に照らされると空を横切る獣のように映る。
雨音と風の音が重なる中で聞こえる不思議な音も、“雷と飛んでくる獣”という想像を支えたのだろう。
さらにイタチも候補のひとつとされてきた。
雷雨のあとの静けさの中、地面近くを素早く駆け抜ける姿は、人びとの目には「何かが雷とともに落ち、走り去った」ように見えた。
身近な小型哺乳類たちが、雷という大きな自然現象と重ねられていったのである。
▫️雷雨の後に残る“痕跡”という謎
雷の落ちた場所には、土がえぐれていたり、地面が放射状にひび割れていたりすることがある。
木の幹に沿って樹皮がはがれ落ちたような跡が残ることもある。
こうした痕は、現代の言葉で言えば落雷による破壊や“雷撃孔”だが、昔の人にとっては雷獣が通った足跡に見えた。
雷雨が去ったあとの山や田んぼは、人影も少なく静まり返っている。
そこに突然現れる不自然な傷跡や焦げ跡は、目に見えない何かの仕業として語られやすい。
雷獣という存在は、雷がつくる痕跡に“物語の形”を与えたものでもあった。
▫️江戸期の図譜に描かれた雷獣たち
江戸時代の博物図譜や随筆には、雷獣の姿がいくつも描かれている。
丸い体に長い尾を持つもの、犬や猫のような姿のもの、ムササビに似た皮膜を持つものなど、その姿は一定しない。
実際に雷とともに見つかったテンやムササビ、イタチの死骸が、「雷獣」として絵に写し取られた例もあったようだ。
当時の図譜は、観察にもとづく写実と、伝承にもとづく想像が同じ紙の上で共存していた。
雷獣は、その境界に立つ存在だった。
雷という得体の知れない力と、山野の小さな獣たちとのあいだに生まれた“あわい”が、そのまま図として残されたのである。
▫️雷と獣を重ねて見た時代のまなざし
雷は空から落ちる光であり、獣は山や野から現れる影だ。
雷鳴が轟く中で、木々の間を走るものを見れば、そこに何らかのつながりを感じるのは自然なことだったのだろう。
雷獣とは、雷の恐ろしさと、山の生き物の気配をひとつに束ねた名前でもあった。
自然と向き合う暮らしの中で、説明のつかない痕跡や音には、いつも生き物の物語が添えられた。
雷獣の伝承は、雷という現象を、生活の言葉と感覚で受け止めようとした痕跡のひとつなのかもしれない。
雷雨のあとに残る焦げ跡や傷跡は、
空と山のあいだを駆け抜けた何かの足跡のようにも見える。
雷獣――それは、雷に姿を与えようとした昔の人びとの想像の形であり、今も静かに語り継がれている影だ。
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