― 水の記憶に呼ばれて ―
海の底で眠っていた記憶が、
潮の変わり目にふと目を覚ます。
それは川の匂い、流れの音、
生まれた瞬間の水の温度。
鮭はその呼び声に導かれ、再び旅をはじめる。
目次
- 🌊 呼び声
- 🧭 北の海を離れて
- 🌤 流れを遡る
- 🌲 森の匂い
- 🕊 命をつなぐ
- 🌅 永遠の水
🌊 呼び声
海の色が変わる。
潮の向きが少しずつ逆に流れ、風が冷たくなる。
その変化の中で、鮭の体の奥に微かなざわめきが走る。
眠っていた記憶が、波の奥から呼びかけてくる。
それは川の匂い。
山の雪解けが運ぶ淡い甘さと、岩の冷たい感触。
それを覚えている体は、時間を越えて反応する。
何年も経っても、あの水のぬくもりを忘れない。
群れがゆっくりと方向を変える。
誰かが指示を出すわけではない。
ただ、同じ記憶に突き動かされるように。
潮の流れが、命の記憶と重なっていく。
🧭 北の海を離れて
旅が始まる。
海は広く、道は見えない。
けれど、潮のわずかな塩分の差、
月の位置、星の角度──
そのすべてが目印になる。
鮭たちは夜の海を進む。
星が水面に映り、銀の鱗がきらめく。
その光は、まるで空と海がひとつに溶けたよう。
群れの動きは静かで、波音だけが響く。
時に嵐が来る。
水面が荒れ、泡が弾ける。
けれど鮭は止まらない。
それは帰るというより、
自分の原点に“引かれていく”旅だ。
🌤 流れを遡る
やがて潮の味が変わる。
海水の塩気が薄れ、川の流れが混ざる。
そこは海と川が出会う場所。
行きと帰りの境界線。
鮭の体は再び変化を始める。
海の水を捨て、淡水に戻る準備をする。
体内の塩分が調整され、皮膚が荒れ、
体の色が徐々に朱に染まっていく。
それは痛みでもあり、儀式でもある。
命の終わりを意識しながらも、
鮭は流れをさかのぼる。
その目は真っ直ぐに、故郷を見ている。
🌲 森の匂い
流れが狭くなり、森の影が水面に落ちる。
風に混ざるのは、木々の湿った匂い。
水の音が岩にぶつかり、空気が震える。
鮭は一匹、また一匹と跳ね上がる。
体を岩に打ちつけながら進むその姿は、
苦しみではなく「意志」そのものだ。
空気が薄れ、流れは冷たく、
それでも進む。
滝の上に差す光はやわらかく、
森の葉の間を透かして輝いている。
その光を目指して、鮭は最後の力を振り絞る。
🕊 命をつなぐ
川の奥で、鮭は生まれた場所へ帰る。
水底の砂利を掘り、卵を産み落とす。
流れに削られた体は細く、
鱗は剥がれ、骨の形が透ける。
けれどその姿は、どこまでも美しい。
水が揺れ、砂が舞い、
新しい命が静かに眠りにつく。
川はそれを包み込み、
また新しい季節の鼓動を始める。
🌅 永遠の水
朝日が山を越える。
その光が川面に広がり、
冷たい水の粒が金色に光る。
鮭の体はやがて流れに沈む。
けれどそれは終わりではない。
森の木々はその栄養を吸い上げ、
鳥がその実をついばみ、
雨がまた川に戻ってくる。
海へ、そして再び山へ──
命は巡り、水は記憶を運ぶ。
鮭の旅は、水そのものの輪の中にある。
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