日本とラッコの関係は、
長く、しかし途切れがちだった。
日本列島は、
ラッコの分布の中心ではない。
それでも、北の海を通じて、
ラッコの存在は確かに記録されてきた。
ここでは、
日本の歴史の中に現れるラッコを、
断片をつなぐように追っていく。
🦦 目次
📜 1. 文献に現れるラッコ
日本の古い文献には、
ラッコと見られる動物の記述が散発的に現れる。
名称は一定せず、
「海獺(かいだつ)」
「海狗(かいく)」など、
他の海獣と混同されることも多かった。
これは、
ラッコが身近な動物ではなく、
実物を見る機会が限られていたことを示している。
🧭 2. 北方交易とラッコ
江戸時代、日本は北方を通じて、
間接的にラッコと関わっていた。
蝦夷地(現在の北海道)や、
樺太・千島列島をめぐる交易の中で、
ラッコの毛皮は重要な品目の一つだった。
ただし、
日本人が直接ラッコを大量に狩猟したわけではない。
多くの場合、
交易を通じて流入する「商品」として、
ラッコは認識されていた。
🏯 3. 江戸時代の認識
江戸時代の博物図譜や記録では、
ラッコは珍しい動物として紹介される。
その描写は、
実際の生態よりも、
伝聞や想像に基づく部分が大きかった。
日本において、
ラッコは「知識としての動物」であり、
生活圏にいる存在ではなかった。
この距離感が、
日本とラッコの関係を特徴づけている。
🌊 4. 近代以降の変化
近代に入り、
国境と海域の認識が変わると、
ラッコは日本の自然史の中で再定義される。
毛皮交易の終焉とともに、
ラッコは資源としての価値を失い、
やがて保護の対象へと移行した。
現在、日本で語られるラッコは、
水族館や映像を通じた存在であり、
野生との距離は依然としてある。
それでも、
北の海で確認される来遊個体は、
日本がラッコの物語から完全に外れていないことを示している。
🦦 詩的一行
ラッコは、日本の歴史の中で、近づきすぎず、離れすぎずに現れてきた。
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