山は生きている。人はその息を、きのことして受け取る。
昔の人にとって、
山は“遠くて近い神”だった。
水をくれるのも、
獣を放つのも、
そしてきのこを生やすのも、山の意志。
きのこは神の贈り物として扱われた。
突然現れて、
すぐに消えるその不思議な生態は、
人知を超えた存在の証だった。
🏔 山と祈り
山の入口には“山の神”を祀る祠があった。
春には山菜を採り、秋にはきのこを探す。
だが、どんなに豊作でも、
「山の分までは採らない」という掟があった。
それは信仰というよりも、
共生のための知恵。
山を畏れ、敬い、分け合う。
その感覚が、
日本のきのこ文化の根に流れている。
森に入るとき、人々はひとこと唱えた。
「入らせてもらいます」
それは祈りでもあり、許しを乞う言葉。
きのこを採る手のひらは、
山の心を撫でるような仕草だった。
🌾 森の禁忌と贈り物
昔の村では、
山の奥に“禁足地”があった。
そこには特別なきのこが生えると信じられていた。
見つけても採らず、
ただ手を合わせて帰る。
それは恐れではなく、
山への敬意だった。
森の奥は神の領域、
人の暮らしはその外縁にある。
境界を知ることが、
森と長く生きるためのルールだった。
きのこは、その境界に咲く。
見えない世界と見える世界をつなぐ橋。
それをいただくことは、
神の息を少し分けてもらうことだった。
🌙 森と人の精神
現代では、
山は信仰の場ではなくレジャーの場になった。
けれど、森に入ると
心が静かになるのはなぜだろう。
足音が小さくなり、
声が自然に消えていくのは、
人の身体がまだ「畏れ」を覚えているからだ。
きのこを口にすると、
その畏れの記憶が蘇る。
食べるという行為の奥にある、
“いただく”という言葉の重み。
それは森を恐れながら、
なお森を愛した人々の心そのものだ。
✨詩的一行
山の沈黙の中に、
きのこは神の声を宿している。

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