水底の記憶 ― 最後のハコガメたち(2025年11月5日)
水底に沈む古い川の音を、彼らは百年のあいだ聞き続けてきた。
揚子江ハコガメ――世界で数えるほどしか残されていない巨きな淡水のカメ。
その甲羅の下で、生きものたちは何を見て、何を思ったのだろう。
かつてこのカメは、中国からベトナムにかけての河川や湖沼に広く生息していた。
その背には、数百万年の時間が刻まれていたという。
けれど今、確認されているのはほんの数個体――
「残りの数」という言葉が、恐ろしく静かな響きをもって浮かび上がる。
ダム、汚染、都市化。
開発によって川の流れは変わり、湖のかたちは失われていった。
揚子江ハコガメの住処は、静かに、確実に消えていった。
それでも水の底には、変わらぬうねりがあり、
そのうねりを受け止めていた生きものたちの居場所は、まだそこにある。
現在、野生で確認されているのはわずか数個体。
人工繁殖も成功していない。
研究者たちは、DNA解析や環境DNA(eDNA)を使って
未発見の個体を探しているが、
オス・メスのバランスや健康な繁殖能力、
そして住環境の回復など――壁は高く、深い。
我々が「絶滅」という言葉を使うとき、
そこには時間が含まれていないことが多い。
けれどこのカメの場合、100年を超えて生きる個体が当たり前だった。
その時間の重みを私たちが想像できるだろうか。
百年を生きてきた背中が今、ひとつだけ残っているとしたら――。
その存在の静けさが、叫びより強い言葉になる。
種としての復活が叶わないとしても、意味がないわけではない。
このカメを通じて、水と川と人と生きものの関係を
もう一度見つめ直すことができる。
“尊ぶ”という言葉が、利用するのではなく共に在ることを指すならば、
その関係を再起動することにこそ意味があるのではないか。
残された数匹の命は、私たちへの問いかけそのものだ。
進むべき道は明確ではない。
だが静けさの中で、命の灯が消えそうなときほど、
その灯りが意味するものを見つめ直す時間が必要になる。
川の底にしずむこのカメを見つめることが、
私たち自身の生きもの観を問い直すきっかけになるだろう。
🌏 せいかつ生き物図鑑・世界編
― 変わりゆく地球を見つめる観察記 ―出典:IUCN/WCS/Mongabay/Times of India/TIME
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