その小さな甲羅の中に、
冬の海がまるごと閉じ込められている。
石川・金沢で「香箱(こうばこ)」と呼ばれるメスのズワイガニ。
漁が解禁される11月から、わずか二か月――
この短い季節のために、人は一年を待つ。
香箱はオスの「加能ガニ」に比べ、ひと回り小さい。
けれどその身の奥には、冬の海の記憶が詰まっている。
甲羅の中に並ぶ赤い粒――外子。
その下には、柔らかくとろける内子。
そして中心には、濃厚な味噌が静かに光る。
三層の旨味がひとつの甲羅に重なり合う。
それを割り、箸で少しずつ掬い取る。
口に含めば、潮の甘みと深い余韻。
味というより、波の音に似た静けさが広がる。
香箱が特別なのは、その短い命の時間だ。
漁期は11月上旬から12月末まで。
年を越す前に、彼女たちは卵を抱え、海へ戻る。
そのため人は、二か月のあいだにだけこの味を知る。
地元の近江町市場には、蒸した香箱がずらりと並ぶ。
その甲羅を開け、内子と外子を丁寧に混ぜる。
酢で軽く和えると、海の香りが立ちのぼる。
職人の手元には、ほとんど無駄な動きがない。
「内子の火は一秒で変わる」と、老舗の板前は言う。
その一秒を見極める感覚こそが、
冬の味を決める。
焦らず、急がず、ただ海の呼吸に合わせるように。
料理という行為が、自然への返礼であることを思い出させてくれる。
香箱を食べる夜は、静かだ。
窓の外では風が鳴り、雪が舞う。
その音の奥に、遠い海の気配を感じる。
人はその瞬間だけ、海と同じ時間を生きる。
味はすぐに消える。
けれど、記憶は残る。
あの甲羅の赤、湯気の向こうの冬空、
そして小さな命が残した、潮の香り。
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