知っていても、手は伸びる。
分類:文化・人間行動・事故記録
対象種例:クサウラベニタケ、ツキヨタケ、ドクツルタケ、カエンタケ など
分布:日本全国(山林・里山・住宅地周辺)
関連分野:民俗学、公衆衛生、行動心理、毒性学
主要モチーフ:錯覚・記憶・習慣・欲望
扱い:誤食事故・教育・自然との距離感
新聞の片隅に、
毎年かならず現れる小さな記事。
「○○県で夫婦が毒きのこを誤食」「一家3人入院」。
名前も季節も違えど、
同じ言葉が毎年くり返される。
森は何も変わらない。
変わるのは、
それを見抜けなくなった人間の“眼”だ。
🌿 似ていることの罠
ドクツルタケをマツタケと間違える、
ツキヨタケをヒラタケと思う――。
原因はいつも“似ていたから”。
だが本当の理由はそこではない。
「もう少し奥まで採れば」「これも食べられるはず」
そんな“思い込み”が判断を曇らせる。
森は警告を出している。
赤や白、苦味や匂い。
それでも人は、“自分だけは大丈夫”と信じてしまう。
🕯 記録の中の繰り返し
江戸時代の文献にも、
「毒茸にて村人中り死す」の記述が残る。
時を経ても、
同じ間違いがくり返されている。
それは人の“記憶”が森の周期に追いつけないからだ。
森の季節は長く、人の学びは短い。
毒の記録は、
人が自然を忘れていく速度そのものでもある。
🌲 学びの森
現代では、
自治体や博物館が毒きのこの展示を行う。
写真、標本、体験。
けれど、写真で見る毒は、
森の中で見るそれとはまったく違う。
風、湿度、匂い、土の感触。
五感で感じなければ、
人は本当の“違い”を学べない。
森の記憶は、森の中にしか残っていない。
✨詩的一行
間違いとは、忘れたということ。
森は何度でも、同じ場所に立っている。

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