― 潮の底で、時を歩く ―
海の底を、ひっそりと歩くものがいる。
それは泳ぐことよりも、
歩くことに生を見いだした生きもの。
波に押され、砂に沈み、
ときに岩の影に身をひそめながら、
彼らは海という時間の中を、
確かに前へと進んでいく。
潮が満ちると、彼らの世界は広がる。
干潮のとき、海は引き、
残された小さな水たまりに
光と命の名残がきらめく。
そのとき、カニは歩く。
海と陸のあいだを、ゆっくりと、
誰に見せるでもなく。
甲羅に宿した海の記憶だけを信じて。
古い殻を脱ぎ捨て、
新しい殻をまとい、
それでも歩きつづける。
その姿は、
まるで「潮そのもの」のように
循環する時間の一部であり、
変わりながら同じ場所に還る命だ。
カニとは、
海の記憶を背負って歩く者。
潮の満ち引きとともに呼吸し、
海を生きるということを
静かに語りつづける存在。
次話:ズワイガニ ― 冬の深海に潜む王
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