― 境界に立つ命 ―
川の水が塩を含み始めるとき、
世界はひとつの境を超える。
光が変わり、匂いが変わり、
命はゆっくりとその形を変えていく。
目次
- 🌫 境界という場所
- 🧭 変わる水、変わる体
- 🌊 海の匂い
- 🕊 はじめての波
- 🌅 遠ざかる川
- 🌌 その境を越えて
🌫 境界という場所
河口は、淡水と海水が出会う場所。
上流の冷たい水が、潮の温もりに触れてゆらめく。
ここでは川の声と海の息が交わり、
水はどちらでもあり、どちらでもない。
稚魚たちは、その曖昧な境を泳ぎながら立ち止まる。
そこには「もう戻れない」という予感があり、
同時に「これからすべてが始まる」という確信がある。
川の流れは背中を押し、潮の引きが彼らを誘う。
命はそのはざまに身を置き、静かに変化を受け入れていく。
🧭 変わる水、変わる体
鮭の稚魚の体は、この境界で変わりはじめる。
淡水の中で育った細胞が、塩を受け入れる準備を整える。
水の密度が変わり、呼吸が変わる。
外の世界に適応するため、体の内側が組み替えられていく。
その変化は痛みではなく、覚醒に近い。
ひとつの世界で生きることを終え、
次の世界に生きる準備をする。
自然は、命にそう教える。
🌊 海の匂い
風の向きが変わる。
塩の香りが微かに混ざると、
稚魚たちは群れを整えて下りはじめる。
水の味が変わり、肌の感覚がわずかに刺す。
それは未知の世界の呼吸のようで、
恐れと憧れが入り混じる瞬間だ。
川の終わりは、海のはじまり。
水面には波が現れ、遠くの光が揺れる。
その光を、稚魚たちは迷わず追いかける。
🕊 はじめての波
海に出ると、世界は広すぎて静かだ。
川の流れのような導きはもうない。
水は上下にも動き、音はどこからも響く。
けれど、その混沌の中でこそ、彼らは自由になる。
初めての波を超えたとき、
それは恐れではなく「受け入れ」だった。
生まれた川を離れることは、失うことではない。
新しい水の中で、生きる形を学び直すことなのだ。
🌅 遠ざかる川
やがて群れの後ろに、故郷の川が小さく見える。
あの水の冷たさも、森の影も、すべてが遠くなる。
けれど消えるわけではない。
体の奥にその流れは残り、記憶として生き続ける。
それは“還る”ための道しるべ。
鮭は進むことで、帰る準備を始める。
離れることと戻ることは、同じ線上にあるのだ。
🌌 その境を越えて
日が沈み、空と海の境も溶ける。
川を越えた鮭たちは、
いまや光と塩に包まれたひとつの存在になっている。
彼らはまだ小さく、海の広さを知らない。
けれど、流れの中で確かに“生きている”と感じている。
命は境界を越えるたび、少しずつ世界を覚える。
やがてその記憶が、彼らを再び川へ導くだろう。
そのとき、海と川のあいだはもう隔たりではなく、
めぐりの一部になっている。
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