― 命が流れ出す場所 ―
水は、静かに始まりを告げる。
雪が溶け、岩を伝い、やがてひとすじの川になる。
鮭のすべては、その一滴から始まる。
💧 雪解けの源
春、山の雪が溶けていく。
冷たい雫が岩を伝い、谷を抜け、やがて細い流れをつくる。
それはまだ名もない水。けれど、その水は遠く海まで旅をすることを知っているように、静かに動きはじめる。
山の呼吸、森の影、鳥の声、すべてがその一滴の中に映り込んでいた。
鮭の命は、そんな水の流れの最奥から始まる。
雪が溶けたその瞬間から、命の回路はそっと開かれていくのだ。
🌱 川のゆりかご
川は命のゆりかごだ。
流れの緩やかな場所には、砂利と小石が積み重なり、間に小さな空間が生まれる。
そこに鮭の卵は産み落とされる。
親の体が震え、水底の砂を舞い上げるたび、光が細かく揺れる。
透明な卵の中には、小さな心臓がすでに鼓動を打っている。
それはまだ声を持たない命。けれど、その鼓動が川の音と共鳴する。
やがて水温が少しずつ上がり、春の気配が差し込むころ、卵の殻が音もなく割れる。
川はそれを静かに包み込み、流れの中に新しい息を送り込む。
🐣 命のはじまり
稚魚は、まず底の石の間に身を潜める。
光を恐れるように、影の中でじっとしている。
体にはまだ卵黄がついていて、泳ぐことよりも、ただ生きることに集中している。
やがてその黄が消えると、水の中で小さな体をくねらせ、初めて自分の力で流れを感じる。
川底の砂の粒、流れの速さ、水の匂い。
それらすべてが“世界のはじまり”だった。
この時期の鮭の稚魚は、まるで水そのものの記憶を吸い取るようにして成長していく。
どんな冷たさも、どんな光も、彼らの体に刻まれる。
🌊 下りゆく稚魚
春が深まると、稚魚たちは川を下りはじめる。
群れとなって流れに乗り、緩やかに海を目指す。
山から海へ──それは、彼らにとって最初の旅だ。
夜の川を下るとき、月明かりが水面を照らし、銀の波紋が踊る。
小さな体たちは光を浴びながら、音もなく下っていく。
そこには恐れもなく、ただ流れに委ねる意志があるだけだ。
水が導く方向へ、彼らは進む。
それは生まれながらにして知っている“道”なのだ。
☀️ 光と影の境界
川の流れは、場所によって光と影を分ける。
森の木々が落とす影の下では冷たい水が息を潜め、
日差しが差し込む場所では、水が柔らかく輝いている。
稚魚はその境界をすり抜けながら泳ぐ。
光に導かれると同時に、影に守られながら。
水の温度、風の匂い、そして微かな泥の味。
それらがすべて、彼らの感覚を育てていく。
生きるとは、こうして世界の“輪郭”を覚えることなのだ。
🌌 水の記憶
稚魚たちは、やがて川の河口へたどり着く。
そこには塩の匂いが混じり、潮の呼吸が聞こえる。
淡水と海水が交わる場所で、彼らの体は少しずつ変化していく。
体内の塩分を調整し、海に出る準備を整えるのだ。
このとき、彼らは無意識のうちに“水の記憶”を刻む。
生まれた川の匂い、温度、流れの速さ──それらがすべて記録される。
それは、何年ものちに再び帰ってくるための目印。
水はただ流れるだけではない。
命を運び、記憶をつなぎ、未来を準備する。
鮭の旅は、ここから始まる。
水が命を生み、水が命を導く。
この流れのすべてが、「還る」という約束を内に秘めている。
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